私の生い立ち4|木製パレットや包装・梱包資材等から、輸送・物流の支援を!岐阜の市原工業株式会社。

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私の生い立ち4

私の生い立ち4

2019/4/5

私たちは岐阜県多治見市にて活動中の市原工業です!私たちは木製パレットの製作や包装・梱包材等から、輸送・物流の支援をおこなっています。パレットや包装・梱包材でお困りの方は相談無料。ぜひ一度、市原工業にお話だけでもお聞かせください。

代表の市原です。今日は、私の生い立ちの最終となります。

ドキドキしながら支店長席に向かった私が、産まれて初めていただいた転勤辞令は「大阪南支店の勤務を命ず」のような文章だったと思います。大阪?南?産まれて大阪に行ったのは、昭和46年の万博以来…。大阪の事を何も知らない私にとってはただただ不安ばかり。

東京なら、学生時代に多少過ごした場所だけれど、大阪は全く土地勘もありません。

僅かな引き継ぎ期間を経て、大阪へ向かいました。銀行の寮は高槻市にあり、通勤に一時間あまりかかりました。もともと東海銀行は名古屋が本拠地。大阪では、当時の住友銀行さんや三和銀行さんが中心的存在でした。仕事内容は得意先係。前任者がお客様と抱き合いながら「ほなアホなぁ~」と会話をしながら引継ぎしている姿を見て、私にここまでお客さまと親しくなれるだろうかとますます不安が増大していきました。

バブルがはじけかけていた時期とは云え、まだまだ街は賑やかでした。店を出ると隣のビルは風俗店。いきなり呼び込みに合うような立地で、すべてがカルチャーショックでした。

しかし、若いという武器はすごいです!どんどん大阪に特にミナミのまちになじむようになり、片言の関西弁を語りながら、お客様から「中途半端な関西弁」と笑われながらも、徐々に親しくなっていきました。ミナミのまちをスーパーカブで毎日毎日走り回りました。

東京でバイト以外で働いたことが無いので偉そうなことは言えませんが、大阪の人はとても情に厚いと感じました。大阪の特にミナミのまちがとても好きになりました。

話は変わりますが、大阪で勤務をして半年が過ぎ、私なりに慣れてきた頃、銀行の営業方針も随分変わりました。不動産融資がイケイケドンドンだった時代から、回収回収の道を歩み始めます。会社の方針なので、当然従うのですが、とても違和感を覚えたのを思い出します。「土地買ってください。お金は出します」から「月々いくらいくらは返済してもらわないと困ります」と、180度態度を変えたことになります。企業のドクターとしての夢を持って入社した私にとっては、正直先が見えなくなった出来事でした。勿論地道に経営されてみえるお客様も沢山いらしたので、勉強になることも沢山ありました。

私は若くして大阪を経験しましたが、先輩方には中間管理職で初めての大阪で、体を壊していく上司も目の当たりにしました。替わりはいくらでもいる。大企業の強みですが、一社員にとっては、体を壊すのは自己責任。やはり社会の厳しさを痛感しました。

そんな悩みを持って過ごしている時に、頭に浮かんだのが、今迄の自分をここまで育てくれた親とそれを支えてくれた当社の社員の姿でした。私が、家業を継がないと言ったら、社員たちは慣れない新たな職場で、一から働いてもらう事になります。母も祖父から受け継いだ会社を必死に守ってくれています。私は、会社を辞め家業に戻る決心をしました。

平成4年夏の事でした。来年の3月末を以って退職すると覚悟を決めました。

こうして私は家業を受け継ぐこととなりました。

次回は、生い立ちではなく、退職してから現在に至るまでの私が感じていることを書いていきたいと思います。

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