私の生い立ち|木製パレットや包装・梱包資材等から、輸送・物流の支援を!岐阜の市原工業株式会社。

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私の生い立ち

私の生い立ち

2019/1/31

包装・梱包・輸送についてお悩みの企業様必見!そのお悩み、市原工業が解決いたします!

市原工業が提案するのは、包装・梱包面からの輸送・物流の支援です。『企業様から必要とされる会社であり続けたい・・・』

そんな思いを大切にこれからも日々努力と精進を続けていきます。

代表の市原です。

折角のブログなので、今年から定期的に私も投稿する年にしたいと思います。

今回のテーマは、なぜ私が今の職業に就いたかを自分の経歴も併せてお伝えします。

私は昭和40年に多治見の地で誕生しました。父37歳、母34歳で、3人兄弟の末っ子としてこの世に生を受けました。

6年上の兄、5年上の姉と少し離れて私です。

俗にいう末っ子は甘えん坊でわがままで、多分そんな幼少期を送ったのだと思います。

時は高度成長期、親が経営する会社は地元企業主体のお客様でかなり忙しかったと聞いています。いわゆる作れば売れる時代、地場産業も活況で大きく賑わっていました。近くの商店街も土日ともなると縁日のような人だかりで、町全体に活気があった頃だと思います。そんな中で、すくすくと育ちながら小学校まで育ち、名古屋の私立の中学校に入学しました。多分、産まれてきて一番勉強したのが、小学校5・6年生の時だったかもしれません。ただこの学校は、中高一貫ながら男子校で、思春期を男ばかりの中で過ごした悲しい中高時代でした。中学校ではバレーボール部に在籍し、低い身長ながらセッターとして頑張りましたが、高校に行き、ネットの高さが高くなったことに愕然とし、バレーの道をあきらめ、当時流行りのバンド活動の道に走りました。

全く勉強もせず、親には迷惑ばかりかけた3年間だったと今更ながら反省しています。

ちなみに同級生には、かの有名な「林修先生」がいます。当時は殆んど話す機会もなかったのですが、彼があれほど有名になるとは、その時は思ってもいなかったのも事実です。

高校時代から東京に憧れ、親の願いも聞かず、東京の私立の大学に入学しました。勉強しない私が大学に入学できたのは3年生の担任の先生のお蔭と、今でも感謝しています。

夢の東京!すべてが輝いてみえる街。夢と希望いっぱいで東京で一人暮らしを始めました。

ところが、私が行った大学に同じ高校から行った友人が殆んどいなかったこともあり、5月末位までは、夜はいつも一人ぼっち…。憧れの東京が、淋しい東京に変わっていきました。休日などは朝から一日誰とも会話しない日もあったりで、ホームシックになりかけたこともありました。しかし、若い人間の順応性は抜群です。次第に友人も増え、お互いの家に泊まり合ったり、テニスサークルで楽しんだり、だんだんと東京が楽しくなっていきました。だらだらと過ごしてしまった4年間でしたが親友もでき、楽しいキャンパスライフを過ごしました。多分大学は、人生の中でも一番自由でやりたいことが出来る、親が与えてくれた絶好のチャンスの時期だったのかなとこの年になってひしひしと感じています。

東京にすべてが集まって見えるのは幻!隣に住んでいる人の顔も知らないかなりドライな街です。人と人の繋がりは大切です。そんな事を踏まえながら、次回は、4年生から始まった就職活動から現在に至るまでのお話をしたいと思います。

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